南高研究紀要7号(1997.3)より


 コンピュータとともに学校でおこったこと

数学科、情報処理担当 広瀬 徹



趣旨:コンピュータが学校に導入されて早10年ほどになります。
   その間に起こってきたマイナスの面、プラスの面をもういち
  ど見直す時期に来ています。南高校のコンピュータ教育、コン
  ピュータ利用を先導した一員として、自分の通ってきた道筋を
  振り返り、次の時代に用意すべきことがらを整理し、問題提起
  します。                      

 

<1>


1.「先生、ぼくがんばったのに、なんで3やったん」の問いに、とっさに答えられなくなっていること


 コンピュータが成績処理に使われることが一般的になりました。
 その手順は、定期考査・課題考査・小テスト・課題提出・平常点などを数値入力する。教科として決定した重み付け(たとえば定期考査8割、課題考査1割、他を合わせて1割などとする)にそってその学期の換算点を算出します。
 これを表計算ソフトではソートというアイコンの1回のクリックで点数順に並べることが出来ます。その点数順一覧表をプリンタで打ち出し、教科担当が集まって、何点から何点までを評定5とするか、ひとりづつ決めていきます。
 境目が丁寧に検討されます。特に欠点とするかどうかは、換算点だけでなく打ち出してあるすべての資料と担当教官のコメントを聞いて決めます。
 決まれば、上から成績順に評定を一括書き込みをします。
 そして、クラスごとに出席番号順にソートしなおして、印刷し、それを見てクラス担任に手渡す評定一覧表に書き写します。このときは機械的な書き写しですから短時間ですみます。
 それを担任が通知表に記入し、生徒の手に渡ります。
 通知表をもらった生徒は、いろいろ思います。廊下でわたしに会ったとき、「先生、ぼくがんばったのに、なんで3やったん」の問いになるわけです。

 こういったコンピュータ成績処理をしていなかった時代、私たちは、ひとりひとりのカードに記入して広いテーブルにカードを並べて概要をつかみました。あるいは、おおよその点数分布をそれぞれのクラスで出して、それからおおよその成績の目安をたて、あとはそのクラスの担当教官が評定を決めるという手順が一般的でした。
 そのなかではカードをひとりひとり見ながら、ひとりひとりの話を出し合いましたし、ひとりひとり評定を最終決定するとき、どうしようかと悩んだものでした。ときには「あの子は今回がんばった。換算点は不足しているけれども、4としよう。」、また「換算点からいえば評定は4だけれども今学期の学習は手の抜きすぎや。3にしておくほうが本人のためになる。」とあれこれ考えたものでした。
 廊下でそんな質問にであったら、ここぞとばかり本人にがんばってほしいことを材料をあげて即座に応えていたものでした。
 今、わたしたちのおおくは、その力を失っています。

 またソートした結果がひとりひとりプリントアウトされて出てくることから、評定の区切りをつけてしまうと、今までやっていた全体的判断による評定のあげおろしをしてはいけないような錯覚にとらわれてしまいます。
 そんな境界などは便宜的に決めただけで、1点や2点の差なんて換算点の方法によってどうにでも変わります。わたしたちはその評定のやりかえを「教育的な配慮」と言ってきました。こどもをしっかりさせるのに「教育的な配慮」はとられるべき手法なのです。
 しかし多くの、とくに若い先生方のなかに1点でも勝手にさわることは不公平だ、してはいけないと思われる方が増えてきています。
 教科会議でもういちどわたしたちの失ってきたものを討議し、「教育的配慮」は、教育のきちんとした手法なのだということを広め直す必要が出ています。

 また、書き写すなんて時間のむだや、プリント打ち出しで代用してはという意見の人もいます。また兵庫の2、3の学校では、LANで結び一括処理をするところもあります。プリントせずに、おおもとのデータベースに送り込めばそれでよいという学校さえ出ています。そういった学校ではいっそうこの危うさが出ているだろうと思います。
 克服していく道筋はどこにあるのか、最終論考でもういちど考えてみます。


2.コンピュータ処理に付随する「間違いの混入」に無防備になっています


 自分自身、コンピュータ処理に間違いを何回か生じさせ、時にはそのまま生徒達へ印刷して手渡したことがあります。
 期末考査の成績一覧を配ったとき「先生、現代文の点数と古典の点数、いっしょです。ほかの子もみてみたらみんなそうです。」と言いに来られて、「ギョッ」。急いでファイルを開いてみるとそのとおり。
 3年生など科目が多様化していて、1学期の期末考査は33の試験がありました。それが各教科ごとに換算点などを計算しそれぞれの教科ごとにディスクに保存されています。わたしの学校ではロータス123ウィンドウズを台数分購入していますので、それぞれの教科から成績の列をクリックして、期末考査のまとめの表にコピーしていけばいいのです。それを33列つづけるのです。その連続操作の中で、ディスクに入っている現代文の点数をクリックしてコピーした後、次に古典の点数をクリックすべきところをまた同じ欄をコピーしたのです。マクロを作って自動化したらいいのにという声が聞こえそうですが、本校ではマクロはあまり使いません。何をしているかが操作者に分からずに操作がすんでしまう恐さを思って、マクロはあまり使わないようにしています。
 クラス担任に手渡した一覧表を事前に少し落ちついて見ていたら、「あれっ、変だ!」と気づいてもいいところでした。
 時間に追われていて、一応の処理がすんだら、いろいろな点検を加えることなくすぐプリントアウトする。そしてそれを距離をおいてじっくりながめることをせず、すぐに手渡すことになっていたのでした。
 担任に手渡す寸前、ある試験だけ順序がひとりずれていて、次々と違う生徒の点数が次の生徒の点数とされてしまい、それをもとに個人の平均点・順位がだしてあることに気づいて、冷や汗を流し急ぎ処理しなおしたことがあります。このときのあせりは、「ああこんなことを続けていたら神経がまいってしまうな。」と思えるものでした。コンピュータ技術者が30代前半ぐらいまでしかもたないといわれるのも、こんなことの日常なのだからでしょう。

 このような危うさはあげればいくらでもありました。
 上の1.で述べた試験ごとの重み付けをして換算点を出し、生徒の名前と比べているとどうもおかしい、点検してみると換算式に思い違いがあって、間違った式になっていた、などは広くおこったことでした。
 全員点数をコピーしたつもりが、ディスプレイに見えない下の方で変なことになっていたこともありました。そのときはコピーをしたらスクロールさせて、必ず最終のクラス(8組)の最後の生徒まで間違いなく複写したと確かめるのを怠ったからでした。
 80点を30点と入力してしまっていた。それで換算したものですから、成績が「4」となるべきところが「3」となっていたことがあります。5年ほど前でしたでしょうか。わたしたちの学校では夏休み当初10日ほどかけて、個別保護者面談がされるのですが、そのとき担任の先生にお母さんが、「あのう、先生、娘が、今度の試験がんばったんだけどまた3だった。先生、がんばったと評価してくれなかった。と悲しそうに言うんです。」と話されました。担任がすぐわたしに知らせてくれましたので、すぐにファイルを開いて見てみますと、手書きの点数原本は80点でした。わたしの入力ミスです。換算し直すと1ランク上がって「4」です。すぐに連絡をとって謝りました。「よく話していただきました。」とおわびの手紙も書きました。しかし保護者と担任がなんでも言える関係で思い切って言っていただいて、間違いが分かったのですが、もしそのことを聞くことが出来ていなかったらと思うとぞっとします。
 きっと表に出ていない間違いは、もっともっとたくさんあるのではないか。いやあると確信できます。間違いの混入がどうしても起こること、それを防ぐ手だて、その間違いをみつける手だて、の研修を意識してやってはいますが、コンピュータ処理が急速に一般化した学校現場では無防備ともいえる状態ではないでしょうか。

 このこともコンピュータ業界でとられている対策方法とも照らし合わせて、いそぎ対策がせまられていることだと思います。


3.コンピュータへのよりかかりが起こっています


 最近、こんなことがおこりました。

 昨春の卒業生の進路状況の報告が職員会議でなされたときでした。大学の一般入試について一昨年と昨春の本校合格率のパーセント及び予備校調査の全国平均の倍率が印刷されたものが配布されました。進路指導部より、その報告として「昨年の本校の合格率は21.6%、今年は25.6%でわかりますように、一般入試は易化したと言えます。」と述べられました。
 とっさに「データ分析に心がともなっていない。」と思いました。
 私立受験校や理数系コース設置の学校に地域の中学生が流れていく中、わたしたちの学校が団地の中の公立の普通高校として存続していくことは、東京などの公立高校の現状を聞くとき容易なことではないと見当がつきます。それでものびのびとした公立高校の自由さの中で、それぞれの進路希望を実現していく道を探りたい。「〜高校なんか行ってたら大学なんて合格しないよ」という地域の心ない声に生徒たちをまきこまないように一定の成果もあげたい。そう思いながら私たちは受け持った昨春の生徒たちと、特に塾にも行かずに学校の授業を信頼してくれている生徒たちとともに歩いてきました。夏休みや早朝の補習、2月からの自由登校日での大学別学習・・・、こうしたことをわたしたちは、決められたり強制されたのでなく生徒とともに歩いてきました。
 「そうした同僚の心を、この報告は汲み取ってくれてない。昨春の合格率4%アップに込められた動きを、入試の易化の一言で片づけるのでなく、いろいろな角度から分析しようと試みてくれたのだろうか。」と瞬間思いました。
 職員会議の報告事項でしたから議題がすぐに過ぎていきました。でもこれはデータを扱うことを先導してきたものの責任として黙るわけにはいかない、また「易化した」の一言では、がんばった生徒にもうしわけない、「えい、言ってしまおう。」と決めて、発言しました。「このような分析は間違っていると思います。合格率がアップしたら入試自身が易しくなったという分析だけでは、一面的すぎる分析です。進路指導部として分析し直してほしい。」
 気まずくはなりますが、言っておかないと安易な数値分析がまかり通ります。進路部は「桐」などのソフトウェアを使ってきれいなデータ統計をされます。しかし300人のデータ処理して出てきた合格率の数字に、無批判な寄りかかりが起こっているのだと思います。出てきたパーセントの少数統計の危うさを十分検討しないまま数字を受け入れていると思われます。
 たとえば、本校の4%アップは全国平均からすれば有意な差があるかどうか、をまず調べる必要があります。提供されているデータは、全国平均倍率が4.2倍から3.8倍へ減少したとあります。合格率は1/4.2と1/3.8を計算すれば出てきます。すると23.8%から、26.3%へ増加したと算出されます。全国平均は合格率2.5%の増加となります。
 これと本校の4%の増加とが有意な差があるのかどうか(本校は全国よりがんばって合格率がのびたのかどうか?)。少数統計ではこれぐらいの差は何とも言えないのが統計です。しかし逆にそのことを考察せずに数字を見れば「本校は全国平均より2.5%も合格率がアップした。」と分析し、先ほどとは違った報告をしてしまうかもしれません。データ分析はこうした危うさをいつも抱えています。
 問題は、こうしたデータ分析の危うさを知ると同時に、データに含まれる人の心にいつも思いを寄せることです。このことをきちんと伝えることが、コンピュータを先導してきたものの役割だと思います。

 似たようなコンピュータへの寄りかかりが学校現場に現出しています。
 今度調べようと思っているのですが、定期考査は全学年で60試験ほどありますが、何割がワープロ作成でしょうか。ざっとみますと9割を越えているようです。わたしは自分の数学の試験問題はほとんど手書きです。ワープロを打つと2時間はかかりますが、手書きならていねいに書いて30分ですみます。わざわざワープロにする必要はないのです。もちろん、エディタやワープロは自分の思うまま使いますが、手書きの手軽さを捨てることはないのです。ワープロでないとほんものの書類でないかのような雰囲気が職場にあれば、それを是正する動きをするのが、わたしたちコンピュータを先導してきたものの、今の役目だと思います。

 コンピュータは効率化・合理化を進めると言われますが、学校現場では必ずしもそうではありません。少数のコンピュータ操作をするものがデータ処理に徹夜に近い仕事をしているだけのことが案外あります。延べの時間を算出したら、さあどうでしょうか、効率化できたといえるでしょうか。
 また、プリンターにまかせておけば印刷してくれると思っている人が多いのですが、学校のプリンターなんて調子の悪いときが多いのであって、その調整はかなりの時間をかけて担当が面倒をみているのです。用紙切れがないかどうか、時には表示が不十分で、何時間もかけてプリントしたものを全部やり直すということだって起こります。その時間、その人はずっとそのプリンターにかかりきりなのです。個人票をプリントアウトして配布する総時間と、担任一人一人がそれぞれのデータを手で書き込んでいくのと、総時間数は同程度ではないかと思っています。ただ、今まで手書きしていた人から言えば、書き込む時間がいらなくなったので事務効率化がなされたように感じている場合が多いのです。
 個々の教師が一人一人手書きで書いていた時代、教師はその時間その作業を通して生徒につきあっていたのです。ならばそのデータ処理も少数者に背負わせるのでなく、個々の教師がデータ処理をするシステム、出来るシステムを作り上げなければいけないと思います。そのシステム作りが、先導者の今からの仕事ではないでしょうか。

 またコンピュータを使える人が、同僚の仕事を代わりにやってあげようとすることもよく起こります。その人が自分で出来るようにつきあうのではなく、もどかしくてかわりにパッパッとやってあげるのです。もちろん善意なのですが、そのことは大きな弊害をもたらします。
 やってもらった人はその仕事が自分の仕事のように思えません。またこう修正したいと思っても自分ひとりで出来るようには教えてもらっていませんから、その人にお願いしてやってもらうはめになります。主導権が奪われてしまうのです。そういった請負いが職場に起こりますと、その人がいないと作業が進まなくなり、いびつな作業環境が出来上がります。

 できるだけ等身大のコンピュータ操作を広めること、データに含まれる人の心をとりだすこと、どうやらそういった時期に来ているように思います。


<2>


1.コンピュータが「自己を表現する」武器になった


 こんどは、コンピュータが学校にきてよかったことを書きましょう。
 わたしの情報処理の授業のサブタイトルは「自己を表現する」です。
 個々のソフトウェアの使い方がうまくなることや、プログラムの技を覚えさせることより、初歩的な手法で十分だから「自己を表現する」力をつける手伝いこそが、コンピュータを使う教師としての役割だと思い定めて10年ほどやってきました。

 授業の中で、生徒たちのいい力を十分見せてもらいました。
 教室での暗記学力とはまた違った生徒の力でした。 
 Windowグラフィックスを使って、「春夏秋冬どれかの季節を描いて」と注文を出します。わたしたち大人には描けない清新な作品がでてきます。ピロティに張り出すと学年の先生が見てくれて、「えー、あの子が描いたの。」とまたその生徒に声をかけてくれます。ほめられて生徒はすなおに喜んでくれます。
 12月に「たった一人のためのカラーカードを作って」と注文し、全員カード大にカラープリントします。好きな人にあげるのだろうな、というカードが混じります。
 ワープロを練習させるにしても、全員がありきたりのビジネスあいさつ文を打つだけでは、表現力としてのワープロの良さを伝えられるとは思いません。ふっと思いついて、旅行社から国内国外の旅行パンフレットを100ばかりもらってきて、ひとりひとりに選んでもらいます。「おとうさんやおかあさんのための旅行プランを作りませんか?」と呼びかけると、 生徒たちは素直に受けとめてくれました。いろいろな工夫をして1枚だけの旅行プランを創り上げます。「おかんのための旅行プラン 働いたらほんとに連れていくからな」とゴシック体で題したものもできあがりました。プリントしたものをちゃんと見せてくれたようです。

 本校では、VisualBasicを使ったプログラム学習をおこないます。生徒たちへ「いもうとやおとうとたちへ」と題したプログラムを作ってほしい、夏休みにこの部屋に招待する近在の小学生に見せる作品を作ってほしい、と課題を出します。
 「遊園地型イベントドリブンプログラム」「単線型紙芝居プログラム」「分岐型複雑プログラム」のどれでもいいから作って、と課題を出します。多彩な作品が作られていきます。ある女生徒はワニと虫歯の紙芝居を作って「歯みがきをしようね」と結びます。ある男生徒は世界地図のいろんなところをクリックさせ、ヒツジが啼いたり、鯨が潮を吹いたりの簡単アニメーションを組み込んでくれました。
 教室の黒板授業の様子とは違った、うれしくなる作品ができあがります。担任の先生にそのWindowsプログラムをお見せします。びっくりされています。こども思いのやさしい作品にいくつも出会います。ひごろ外にだしていないやさしさをありのまま出すことで、どうやら人は喜んでくれるらしい、ことがわかってくれたのだと思います。

 授業中こんなことを言っても、生徒ははにかんでまだ反応してくれませんが、「画像に自分のニコッとした笑顔をスキャナで入れて、そしておっきな字で、君が好きや! と書いて、ついでに声も録音して、ファイルに作り、autoexec.bat に組み込んで、これ見て! とディスクを手渡す。こんな時代が君たちの時代や。」とわたしはよく言うのです。
 まもなくきっとこれを実行する生徒がでるはずです。


2.教材が豊かになりました


 生徒が授業に参入するのならコンピュータでもなんでも使おうと決めたあと、DOS−BASIC言語で「方程式が図形を創る」「ガリレオと微分法入門」など画像と数値シミュレーション表示を駆使した授業プログラムを6年ほど前、一気に創りました。
 今は、Windowsプログラムを使って様々なマルティメディアを生徒に見せることが出来ます。またインターネットから取り入れた世界規模の教材も取り入れることができます。
 もし私たちが「伝えるべきもの、伝えたいもの」をたくさん持っていれば、今ほど多彩な表現でそれを伝えられる時代はないだろうと思います。それがマルティメディア時代として生徒にも社会にも歓迎される時代なのですから。

 また、ぬくもりの伝わる作り方であれば、ドリル教材も有効な教育手段です。忙しい、忙しいと毎日の雑務に追われている私たち。あの生徒はわかっていない、基礎的な事項でさえ身についてはいない。わからないまま授業に座っていることはわかっていても、そのままになっている、そのことがわかっていても忙しいことを理由に、わたしたちはその生徒たちを、結局は放りっぱなしにしています。
 少し研修すれば、基礎的なところだけのドリルなら意外と手軽に作れます。
 手軽に作って、基礎的な事項だけは解けるようにしてしまうことは有効な手だてです。
 いちど作っておけば毎年使えるのですから。

   英語や社会、国語の教科でも同様です。豊富な画像、数値データ、音声、動画などを収録したCD−ROM教材がだんだんと販売され始めました。豊かな教材が使える時代が来ています。またインターネットなどから、日本各地、いや世界各地から工夫されたデータ、斬新な、また地味な教育の試みを参考にすることで、視野の広い豊かな教材が用意できます。
 若い先生方にはこのことを折に触れて伝えています。コンピュータに臆することのない教員になってほしい。コンピュータなどさらりと使って、清新な授業を作り上げていってほしいと願っています。
 たぶん今後、お上から推奨されていくだろうマルティメディア教育に、自主性なしに飲み込まれてしまうことのないような、コンピュータへの接し方を身につけておいてほしいからです。



3.コンピュータへの理解(コンピュータリテラシィ)をぜひとも生徒たちへ


「コンピュータは機械だから、ちゃんとつきやってやらないといけない」

 数学でのプログラムでサイン・コサインを教えるのに「回れ、ゴンドラ」のプログラムを使います。「30度」とか「−120度」とか角度を入力すると7色のゴンドラがその角度だけ回って、その角度のサイン・コサインを図示するのですが、必ず10000度などを入れる生徒がでます。
 絶好です。「みんな聞いて。○○君、10000度って入れたよ。1回転したあと動かなくなっています。これは動いていないんじゃなく、10000度一生懸命回っているのです。同じところに点を打つからディスプレイには見えませんが、今、ゴンドラは一生懸命10000度回っています。コンピュータは機械だから、人間の命令したとおり動きます。かわいそうだから10000度なんか入れてやらないでください。」と話をします。

「コンピュータに誤りはつきもの、それをどうにかしてやるのが人間」

 プログラムを作っている途中「先生、プログラム動かへん。」と訴えがあります。あれこれやってみるのですが、表示されるはずの画像が出てこないのです。
「LoadPicture」を「LoodPicture」とキー入力してあります。
 「自分は間違っていない、機械のせいだと思いがちだけれど、人間の誤りによる誤動作のほうがおおきいんやで。人間の不注意、読み違え、書き違え、勘違い、不十分な理解によってひきおこされるほうが大きいことを覚えておいてほしい。」
 銀行業務、交通機関自動制御・・など日々コンピュータに依存しているものは多いのですが、どれだけ正確に機械が動いても人間が誤った操作をしたらおしまいなのです。そのコンピュータ依存のこわさを伝えたいと思っています。
 逆にコンピュータが止まってしまったとき、自分が変な操作をしたからだと悩んでしまって、手をあげずにじっとしている生徒がでます。上の事とは逆に、コンピュータがメモリィオーバーなどで凍りついてしまってハングアップしているのです。
 「これは君が悪いんじゃなくてコンピュータの一時的故障です。多分メモリィが足りなくなったのです。コンピュータだって仕事のし過ぎで体調が悪いときもできます。そんなときは電源をいったん切って出直しすしかありません。コンピュータは機械なんですから、今までうまく動いていても、次の瞬間凍りつくことがあります。その機械のことをわかってやって、その都度途中保存してやっておかないといけないのです。」
 こうしたことを折りにふれて伝えます。コンピュータには誤りがつきまとうのが本質だ、とわかればあとはそれをどうしたら未然に防ぐことが出来るか、それでもでてしまう人間による誤った操作、機械の調子によっておこる誤動作を、どうしたら早めに気付き、修正していけるか、そこにこそ人間の仕事があることを伝えたいと思ってきました。

「利便性の中にひそむ不便さに気付いてほしい」

 「最近電化製品がスイッチ式から、しゃれたタッチパネル式に変わっています。そのことで電化製品が使いにくくなった人がでています。諸君、わかりますか。視覚障害者にとって、光っているところを押すタッチパネルの付いた電化製品はとても使いにくいものに変わってし まいました。」
 「Windowsプログラムが一般的になっていったことで同じようなことが起こっています。画面をクリックしたらいいと言われても、画面が見えない障害者にとってはまったくわからないものになってしまいました。今まですべてキーボードからアルファベット文字を打ち込んで命令していた人にとって、クリック操作ができないことでコンピュータを操作できなくなったのです。今、心あるプログラマーは、マウスが動いていて、画面のその場所に来ると、”ファイルを開きます”とか”終了します”とかの声が出るプログラムを作ろうとしています。便利ということのなかにこんな問題がひそんでいることをわかっておいてほしいと思います。」


4.国際交流・全国の仲間とうれしい広がりが持てました


 1988年5月に始めた、アメリカピッツバーグ市ピーボディ高校との電子メール文通は、わたしの中にも大きな変化を起こしました。「ステレオタイプのものの見方を生徒にさせたくない」と言われたピーボディ高校社会科レン先生とのつながりは、アメリカ人をひとからげにアメリカ人としてしかとらえてこなかったわたしを「ジョン君」「レン先生」「サチさん」と個々のつきあいとしてとらえられるようなわたしに変えてくれました。
 特に湾岸戦争のとき期せずして同時に出し合ったメールのなかで、レン先生のメールには「息子や兄が無事に帰ってくるよう、わたしたちの家の入り口には黄色いリボンをつけています。」と書いてありました。湾岸戦争を悪とだけ切り捨てる文を書くわけにはいきません。レン先生の息子さんが海兵隊員として戦場に行っていることを承知で、「湾岸戦争反対」「戦争反対」を言わねばなりません。アメリカ人のレン先生にではなく、友人のレン先生への手紙を書かなければなりませんでした。日本国憲法第9条の英語文と、どんな戦争でも反対と思っている自分の気持ち、戦争をくぐったお年寄りの気持ちを何度も書き直しながら、英文で書いて送りました。
 ピーボディ高校のコンピュータシステム改修で、文通は中途で終わりましたが、今ならもういちど取り組み直せそうです。

 未来をになう生徒たちが、世界の各地にこうした友人を持つなら、簡単に「派兵賛成」や、「都市爆撃やむなし」とは言えなくなります。そうした個々の名前を持つ友人がいる都市へ正義の戦争であろうがなんであろうが、核爆弾を落とすことにどうして賛成できましょう。
 インターネットを通じての世界の高校生交流はそのような結びつきを生む予感があります。


 またこの10年間のコンピュータ導入は、全国のコンピュータを使う教師を強く結びつけました。わたしはコンピュータによるパソコン通信で全国に多くの友人が出来ました。今では全国で研究会が開かれれば仲間の誰かにほとんど出会いますし、多くは一線の仕事をしています。利害得失抜きでつきあうことが出来る、胸襟をひらいて本音で相談できる仲間がいます。コンピュータ導入前史の苦労したものどうしとしての心のつながりがあります。
 わたしには得難い仲間です。
 広げて言えば教師だけでなく、生徒のなかでそれが起こっていきそうです。高校に学園闘争が波及していた頃、生徒自治会が相互に連絡しあうことは禁じられたり妨害されたりしました。
 しかしこのインターネット時代、その相互交流は奨励されるものとしてあります。全国の高校生どうしがわたしたちのようなつきあい方をし始めたら、また世界の各都市の高校生が、個人名でつきあいを始めたら、それは大人になったとき純粋な友人づきあい・国際づきあいとして生来の知己ができるでしょう。

 そんな時代をもたらす手伝いがわたしたちには出来そうです。
 趣味と道楽でないとコンピュータなんてやっておれるかい、と口に出してやってきた先導者のわたしたちですが、もう一仕事がありそうに思います。


<3>



1.手作業の時間の減った分だけ、生徒へ返すデータ分析に時間を使おう


 最終論考として、今からのことについて、わたしなりにたどりついたことについて述べていきます。
 「先生、ぼくがんばったのに、なんで3やったん」の問に答えるのに、古き時代手法への回帰を訴えるのでなく、ここまで広くコンピュータによる成績処理事務が広がっていることを前提として、今まで生徒たちのために使っていたと同じ時間を、多彩な分析に使い、生徒へ返す、その手だてを学校現場へ提案し直しませんか。

 例えば、わたしは最近、試験が終わると、データ表の中に、前の試験との差の欄を作り値を求めます。−30点となっていれば点数を下げるなにかがその生徒に起こっているのです。もし+30ならずいぶんがんばったのです。その顕著な差と授業の様子とが思い当たらないとき、わたしの気付いていないなにかがその生徒に起こっているのです。「どうしたん、こんどずいぶん成績さがったけど。」と声をかけることから始めます。同点であってさえ生徒にはいろいろなことが起こっているのですから、すぐに見つかるそんなことぐらいやらなければコンピュータ化したことに申し訳がたちません。
 その一覧表を手元に持っておいて、ひとりづつ声をかけていく。意識的なこうした行動へのきっかけにデータを使うこと、その手法を整理し、校内に広めていくのが今の仕事だろうと思うのです。
 わたしの身近に、自分が卒業させた生徒たちの3年間のデータを整理して、その進路先と遅刻回数との相関、1年時の通知票成績と進路実現との相関、などをデータ分析し学年通信に掲載されている同僚がいます。「データが生かされている。」とうれしくなります。

 度数分布を必ずグラフ化して学年集団の指導方法を常に考え直してみること、
 特に優れている教科を選び出すデータ分析から生徒をほめ励ますこと、
 実力模擬テストと通常定期テストの落差を調べ生徒に語りかけること、 こうしたことに時間とコンピュータ操作技術を使うことがひろがるなら、この10年間に一般的となってきたコンピュータ利用も大きな力となるでしょう。

 実際、本校約60名の教員で、コンピュータを持っている教員が5割、ワープロを使う教員を入れると8割になります。生徒たちの心とつながるデータ処理システムを、この方々と模索していけば、新しい地に着いたものができあがるはずです。


2.「間違いの混入」を防ぐシステムの組立を急ぎましょう


 「間違いの混入」を防ぐ手だてを急ぎ確立しなければなりません。
 今までわたしたちが不十分ながら採ってきた方法をあげます。
 まず、必ずバックアップディスクを作ります。もう8年ほど前でしょうか。英語科が3学期の成績データを打ち込んでいるとき、ディスクが読めなくなりました。だんだんデータがたまり、ディスクいっぱいになってきたときに、まれですが起こります。英語科の定期考査のデータは総合データに利用してありますので、何時間かかかって全部復元出来たのですが、単語小テスト30回などのデータはどこにもありません。担当教官の教師手帳を集め回ってもういちど打ち込みなおしました。以後本校では、ディスクの右上に赤い四角を書いてバックアップディスクを作るようにしてきました。

 また本校では、自動的にデータ処理するようなプログラムを作ったり、ボタンひとつで処理の済むマクロ操作をあまり取り入れてきませんでした。表計算を使って、できるだけその仕組みをわかる研修会を開き、ひとりひとりにできるだけ操作方法を覚えてもらうようにしました。そのほうが、どこに間違いを生み出してしまうかをつかんでもらえるからです。そういうふうにやってきた人は、ひとつのデータを280人の生徒分コピーしたとき、ほんとうに全部がちゃんとコピーされているか、最初の画面だけでなく終わりの生徒の所までスクロールさせて見てはじめて安心するようになってくれます。

 誤入力発見の方法として、成績一覧を担任に渡し、ひとりでいいからその生徒について全ての教科個人得点と比べてもらって間違いないことを確かめてもらうとか、電卓も使っていた時代はその合計点がピタリと合えばたぶん個人得点の入力は合っているだろうとか、最高点、最低点、平均をすぐに出して、自分の教科感覚に照らし合わせるなどをとりました。
 途中、なにか釈然としないことがあるとき、必ず何かがまちがっていた、というのが実感です。

 プリントアウトしたものをすぐ配布しないで、学年主任だとか、同僚だとかに必ずみてもらってから外へ出します。コンピュータ操作とは別にザッとみていると、あれっ変だ、この生徒がこんな点になっている、など気付くことが案外あります。よしんばひそんでいる誤りがあとでみつかっても、「しょうがないや、見てもらったんだから、わたしだけの責任じゃないや。」とずいぶん気が楽になります。膨大な時間をさいて、そのあげく責任をひとりでしょい こむようなシステムはまちがっています。
 今まで県などへ提出するデータ表の点検に天才的な力を発揮する人がいました。じぶんなりにデータの点検方法を持っているのです。

 企業も同様です。データの誤りは致命的な損害を生みます。大きな予算と人材を投入して間違いの混入を防ぐシステムを創り上げようとしています。その手法から学ばない手はありません。積極的に学習を始めたいものです。


3.コンピュータへの依存からの脱却をはかろう


 あなたは次の質問にいくつ「イエス」がありますか。

 1.「先生、なんで3やったん」の問いにとっさに答えられますか。
 2.表計算ソフトを使うとき、最後の画面までまでスクロールさせて確認しますか。
 3.処理が一段落したらプリントアウトしていろいろと間違いを防ごうとしていますか。
 4.出来あがったものは必ずひとに見せて、責任の分散を図っていますか。
 5.学校のデータぐらいでは、6.3%と6.4%は「同じ」だと確信できますか。
 6.ワープロ文書を作ったとき、1字の間違いぐらい、鉛筆で直して平気ですか。
 7.データ処理をひとりで徹夜するなんて、もうしなくなりましたか。
 8.あなたがいないと出来ないような同僚を校内につくっていませんね。
 9.機種依存しすぎる文書作成・データ処理は避けていますか。
 10.「コンピュータ利用は人間が基本だ」と言い切っていますか。

 「イエス」が5つぐらいしかないとき、あなたはコンピュータ依存症にかかっているおそれがあります。またそれを周囲にふりまいている危険があります。
 自分の周囲の方の診断にも使えば、気をつけて学ぶことが出来るでしょう。

 やはり「等身大のコンピュータ利用」だと思います。
 先導者から言えば、
 なにもかも自分が引き受けるような時代は過ぎました。その人が自分でやったと思えるような「等身大」の処理システムにしていくこと、
 そのことを伝えていくような校内研修会を地道に繰り返していくこと、
 手書き部分、みんなで一斉にとりかかるような人海作戦は大切に守ること
だと思います。
 また、コンピュータ利用を始めた方は、
 自分で処理できるようなコンピュータ利用を心がけること、
 先導者にそのことを要求すること、
 コンピュータ利用の危うさにいつも目を向けていること、
に気をつけてください。
 コンピュータは強さ・弱さ・無駄なところを持っていますから。

 もうひとつ、校内でお互いのデータ・文書が相互利用できるよう工夫しましょう。ワープロ専用機相互、パソコン文書の互換、異なった表データの相互利用の中級研修会を組織しましょう。


4.コンピュータと人間に関する事実・論考をあつめていきませんか


 わたしは、9年前「コンピュータの光と影」という小プログラムで、

 当時2色でしかありませんでしたがきれいなアニメ画像、
 自動的に切削するNC旋盤の画像、
 「電話代自動振り込みで電算入力ミス 6年間他人の1万円払う」という新聞記事、
 大陸間弾道弾ICBMの誤動作発射危機の新聞記事、
 海洋の汚染とタンカー航路とが見事に一致する世界地図画像

を、小さな9801用スキャナー画像から本校利用のマイナー機種JX5への移植を行って、情報処理授業の卒業前最後の時間に、最後の授業として生徒たちに見せていました。
 最後に伝えたいこととしてそのことがありました。
 いまでも身近なものにそのようなものがあればつい切り抜いてしまいます。いずれもういちどまとめる時期があると思うからです。

 生徒たちが間違いなく直面するであろう「一家一台のコンピュータ時代」に、人間の側にたったコンピュータ処理をおこなってほしい。その流れに無批判に飲み込まれずに、あるいはコンピュータが使える人に主導権を奪われずに、等身大の対処が出来るようになってほしい。そのような基礎的な力を育てるための教材を蓄えていきませんか。それをパソコン通信、インターネット情報発信で相互交流していきませんか。

 そして多くの場で、そのことについての論考を重ねませんか。特に、先導者としてそれぞれの学校で啓発を続けられた皆さん、また、コンピュータとは畑違いだと思いながら、コンピュータ利用にはいりこんだ文系出身の方、今感じることを、コンピュータと人間に関する考察として論じていただけませんか。

 そのことのよびかけをもって、この10年をすぎたひとつの区切りとして提言いたします。

1997.3




ホームページへ   「報告集」目次へ